南野輝久さん (岩成台在住・1933年生まれ)

   

 

 某メーカーでの貿易実務を一手に引き受け、諸外国との直接取引に大きな成果を出し終えたのが34歳。その時、10年という歳月は自分にとって一つのことを成し遂げるに十分な時間だと思ったという。10年一区切り。まだ定年まで20年。ならば人の三倍の人生を生きてやろうと「人生三回転説」を心に決めた。
 いま3回転目の人生の真っ只中。「居合道」を通して人材育成を目指す戦前生まれの国士。
 退職後の平成14年、自宅内に居合の道場「群英館」を建てた。同年、1年を費やし和英両文で居合道を紹介した「無雙直伝英信流居合道覚書」を執筆。国内はもとより英国でも5000部の出版を果たした。 

 穏やかな春の日、稽古場を訪ねた。そこには張り詰めた空気があった。教士8段の南野氏が真剣を手に稽古をつけていた。居合の究極の目的は「人に斬られず人斬らず。己を責めて平らかの道」。
 「一刀一閃必殺」とも聞いた。やっぱり人を斬るための刀か?と思ったが、違った。
 穏やかな顔で「だから、刀を抜きなさんな!ということなんです。わかりますか?」。
 そう言ってゆっくりとタバコをくゆらせた。
 「刀を抜くような事態に持っていくな。人と争うな。腹が立ってもまずは己を責めて、それを腹に収めて人を許しなさい、ということなんです」
 難しいことだがその言葉は心に響いた。
 人生三回転説を説くこの人の来し方が気になった。

 
 昭和32年に大学を卒業。当時の日本といえば、まだ貧乏国。血気盛んな若者は会社のためではなく国を豊かにするために働きたいと思った。就職先は文具メーカー。そこで外国との直接取引を提案し、10年で30カ国との取引を成功させた。海を隔てた国と国の利害対立を中にして行う貿易業務は難事業の一つ。若くしてそれを完璧にこなせたことは大きな自信となった。
 そんな頃、叔父の何気ない一言が、南野氏に新しい人生展開を決意させた。
 「口数の少ない叔父がボソッと、いうたんです。『人に金儲けさせていてもしゃあないわい』ってねぇ。大阪人ですなぁ」。
 南野氏もまた生粋の大阪人。「そやなぁ」と思った。
 10年で一つのことができたのだから、次はまったく違う業種でのチャレンジもまた良しと、土木建設会社を経営する叔父の元へ飛び込む。名古屋支店に配属された。経営はともかく仕事の内容はまったく未知の土木の世界。
 「過去を引きずってでは新しい人生展開にはならん。これまでに培った貿易実務や語学力のどれ一つ生かせない職場でした。『よし!やってやろう』って…」。仕事は、人材探し、ブレーン探しから始まった。
 組織の歯車ではなく会社を大きくする喜びをともに分かち合える人材を得て30年余。その間、多数の論文も発表。平成元年には京都大学で工学博士の学位取得。現役学生と違い、仕事の結果としての取得だった。
 平成13年、会社を盛り立ててくれたブレーンたちの定年を見届けた後、68歳で退職。

 居合道との出会いは社会人として成熟期にあった53歳。旧制中学の頃には剣道、そしてその後大学まで柔道で修練を積んだ南野氏にとって武道は決して遠い存在ではなかった。名古屋の「桜千館道場」で居合道の手ほどきを受ける。居合道の極意を知ると、趣味の限界を超え奥行きの深さを知ることとなる。仕事の傍ら、時間を見つけては居合道に打ち込んだ。
 そして3回転目の人生は居合道での人づくりとなった。
 Mr.南野の元で居合いを習う人たちは定年後の男性はもちろん、若い日本女性たちやアメリカ・アルジェリア・アラブ首長国連邦・フィリピンと国籍も多彩。

  日本政府は2005年の今年を日欧人事交流年と定めている。9月には欧州の実行委員会から要請を受け、日本の古武術を紹介をするためにチャーター機でヨーロッパに飛ぶ。パリ・ジュネーブ・ローマ10日間の旅となる。
 「3回転目で古希も過ぎたが、まだまだ未熟の域。果てしない道のりですわ。研鑽あるのみってとこですな。でも、これで居合道の国際的普及には弾みがつくというもんです」
 今度は、本当に旨そうにタバコを吸った。