橋本典子さん (中央台在住・1943年生まれ)
名古屋独特の文化である「尾張絵」を復活させた江川香竹の掛け軸を見つけたのは、実家の床の間。その掛け軸の書を見て「こういう字が書きたい」と思った。父親に「この人に師事したいが…」と伝えると、その作家は父の同級生の娘さんであるという。どこか「縁」を感じる。12年前のことだ。
香竹は仮名書道家として幾度となく日展にも入選し、その地位を固めていた。にもかかわらず書道界から身を引いてまで「尾張絵」復活のために尽力している人物であった。それを知ったのは入門後のこと。
「尾張絵」とは、江戸中期に名古屋の田中訥言(トツゲン)が広めた軸物で、「大和絵」に南画の運筆を取り入れ俳句や和歌と組み合わせ「お茶もん」とか「名古屋もん」と言われてきた。茶人や尾張人に好まれ広まったが、昭和初期には衰退。今では知る人も少ない。
彼女は、その「尾張絵」に自分の目指すものを探し当てた気がした。いま香竹の尾張絵一番弟子として50人の門下生とともに尾張絵を勉強する。
名古屋はお茶どころである。茶人も多いが、ごく普通の家でも日常的に茶を点て、掛け軸などを見ながら茶談義に花を咲かせるという文化が根付く。彼女は書や絵を家の中であたり前に見て育った。小学校3年生の頃、お習字で賞をもらった経験がある。以来父親は彼女を書道塾に通わせた。書は結婚をするまで続けたが、一男一女に恵まれたこともあり子育てに専念することに。
再開したのは高蔵寺ニュータウンに引っ越してきた平成元年のこと。近代詩を得意とする野崎幽谷氏の存在を地域情報紙「ふれんどあさひ」で知る。記事を読むと、その人の作風は今まで知っていた書とはまったく違った。「近代詩」は書の中では新しい分野の一つである。門をたたいた。余白を含めた全体で作品を表現する面白さを、型にはまらない自由さを、そして創作の魅力を知った。江川香竹との出会いは、さらに5年後のことである。
小さい頃から絵を見ることは好きだった。でも絵は自分では描けないと思っていた。しかし師の元では「字の延長で描けた」。描けないと思っていた絵が自分にも描けた。この上なくうれしかった。
それよりも何よりも、嗜んできた俳句や和歌を書で表現し、描いてみたかった絵を加えることができる「尾張絵」という芸術こそが自分の求めてきたものであることに気づいたことがうれしかった。目指すものは「これ!」。
名古屋の貴重な文化財を後世に伝えなければという師の熱い思いも知った。その手助けの一部でもできたらと思うようになる。師から「竹華」の名前ももらった。美術家名鑑には「橋本竹華」の名前が載る。値段もつく。もうプロである。しかし本人は「先生の力あればこその掲載」と謙遜する。
美術家名鑑に名前が載ったことを一番喜んでくれたであろう父は掲載の2年前に他界。努力すれば大きく実ることを父が教えてくれたような気がする。そして香竹との出会いこそが父の形見だと、心底思う。
書から離れていた子育て中、出産で腰を痛めたことから始めたママさんバレーは20年も続けた。身長不足でレシーバーかトッサーにしかなれなかったが、人生を教えてもらい自分を育ててくれたのはバレーボールだと思っている。 「バレーボールって9m×9mの中に人生があるのよ。レシーブしてくれる人がいて、そのボールを繋げる人がいて…それで初めてアタッカーが活躍できるでしょ」
父があり、師があり、バレーボールがあって、いまの自分がある。
そして書の延長で絵が描ける喜びを知ったことが何よりだと思っている。その喜びを一人でも多くの人に伝えたいと「竹華会」を主宰し、学びの場を設ける。