二宮久夫さん(高座町在住・1951年生まれ)
20代の頃から、「定年は50歳」と決めていた。それ以降は人生の幅を広げ深めるための時間、そして家族と共に過ごす時間にしたい。
2002年のこと。あと少しで51歳になってしまうという2月、きっぱりと仕事を辞めた。「こだわりってとこかなぁ?」。八の字眉毛とやさしい目が笑った。
それ以降、20年来ずっとボランティアで関わっていた国際交流団体「中部日本スウェーデン協会」の事務局を務めるようになった。一方で、押し付けでない形で子どもたちに自然の大切さを伝えたいと「あいちエコカレッジネット」で学び、「NPOエコバンクあいち」の東名古屋支部長として様々な活動をする。
50歳までは福祉分野に携ってきた。小学校高学年の頃から宗教(仏教)、個人と公共、福祉と社会保障などに小さな関心が向き始める。高校生になると当時精神薄弱児の父といわれた糸賀一雄氏を人生の師と仰ぎ、ボランティア活動に携わった。多感な時期に読んだ本はルソーの“エミール”、下村湖人の“次郎物語”、そして糸賀一雄の“この子らを世の光に”。基本的思想はこの3人の著書の中。
大学卒業後、最初に勤務したのは群馬県高崎市にある国立コロニーのぞみの園。70万坪という広大な土地に作られたそのコロニーは、設備もスタッフもメニューもカリキュラムも充実していた。当時の日本では障害を持った人たちの幸せはそういう場所にあると考えられていた。でも二宮さんは疑問を感じた。「なんで人里離れたところにあるの?」「障害を持った人たちと街に出るとき、“みんなと一緒に出かける”ではなくて、なぜ “みんなを連れて行く”なの?」。そこに対等の意識は見られない。「どこか違う」と、コロニーを1年で辞めた。
その後、四国の今治市で発達の遅れた幼児通園事業に5年間携わる。そして昭和54年に名古屋の知的障害者の入所更正施設に寮長として夫婦で移り住んだ。そこの施設長の考え方が二宮さん夫妻の心をとらえていた。自分の決めた定年までの23年間、プライベートな時間を持ちづらい環境で、障害を持った人たちと共に暮らした。 「今も仲間全員の名前、言えますよ」
生まれ育ったのは愛媛県佐田岬。自然を当たり前に享受できる場所だった。野山をかけめぐり、野の草で遊んだ。岩場から海に飛び込み、素もぐりで魚を取って遊んだ。命や自然の大切さを体で知った。そして思う。高崎のコロニー時代、唯一良かったことは園生(利用者)ともども周りの自然に心が癒されたことを。「自然の大切さを次世代を担う子どもたちに伝え、残したい」。その一歩が「あいちエコカレッジネット」での学び。実地研修も受けて2年、これまでの知識の裏づけを一つずつ増やしていった。
名古屋時代に出あった美術家関口怜子氏(仙台在住)は、アートを介在して子どもと向きあいハートを掘り下げる様々な活動をしていた。ジャンルは違うものの、彼女の子どもへの関わり方に大きな感銘を受けていた。いつも子どもを中心に据え、決して上からものを言わない。子どもたちが気づいていくためのファシリテーターに徹していた。「周りの大人の役目は子どもたちの気づきの補助をし支えをすること。理屈なんてものは後で十分。大切なことは“気づき”」そんな彼女の考え方に自分との共通点を見た。実践の方法に確信を持った二宮さんは今、活動のフィールドを得て定期的に子どもたちに自然の大切さを伝える。
「福祉」から「環境」へと変わったようにも見えるが、二宮さんの中でそれは一本に繋がる。
「人間はもちろん、野の草だって全てに名前があるでしょ。どうして名前がついていると思いますか?名前があるということは一つひとつ、一人ひとりが大事だってことなんです」。 ジャンルは変わろうとも基本は変わらない。大きなことを教わった。